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2015.09.16

自分史を残す

 父のアルバムには、友だちと写真館で映した写真が何枚かある。それぞれ別々の人とだから、当時、そういうことが流行ったのだろう。いまのプリクラみたいな感覚なのかもしれない。何日後かにでき上がった写真を写真館に取りに行くときには、一緒に映っている友だちが空襲で死んでいたということもあったという。どの写真のことなのか、いまはもうわからない。
 中川家(漫才師ではないってば)は父が6歳のときに、金沢の家や田畑を処分し一家で東京に出てくる。だが戦局悪化で商売も暮らしも厳しくなり、北千住の家は空襲で焼けた。戦後、祖父は疎開先で親戚の事業に関わるがうまくいかなかった。農地改革では、わずかに残してあった金沢の田畑も失った。
 祖母は「北千住の家が焼けなければ今頃は」ということをよく言っていたが、空襲と戦後の祖父の不遇や父の事業の失敗はあまり関係ないだろう。だがそのような家で育てば、戦争になりそうなことはなるべく避けたいと考えるようになる。再び戦争がはじまったとき、泥がついた肉を食うことになるかもしれない者と、そんな心配はない家系の者とでは、多分、歴史認識が違う。
 我々の時代の人の“感性”を後世の人が知るとき、安倍晋三氏や麻生太郎氏の自伝だけしか参考資料がないというのはちょっと困る。だから僕は、自らを「庶民」「一市民」と思う人にこそ、自分史を残してもらいたいのである。

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戦争の記憶

 戦後70年ということで、自分史・家族史と戦争体験の記録というテーマの講演会などが開催されている。僕は今年55歳になるが、家庭で戦争の話を聞いたことがあるというのは、我々が最後の世代となるのだろう。
 昭和3年生まれの父は軍国少年で、予科練に行きたかったが父親(僕の祖父)が願書を書いてくれなかったと言っていた。後々まで続く父の祖父に対するわだかまりの一つに、このことも入るのかどうか、2人とも亡くなったいまとなってはわからない。
 中川家(漫才師ではない)は戦争中、東京・北千住に家があった。3月10日の大空襲では奇跡的に焼け残り、年寄りと女はすでに疎開していて父子だけだった家に、焼け出された旧制中学の友だちが数人集まって住むことになった。合宿所のようだった。
 みんな、とにかく腹が減っていた。ある日、同居する友だちと肉屋に忍び込んで肉の塊を盗んできた。冷蔵庫などない時代だから、庭の土の中に埋めて隠した。その晩、北千住一帯は再び空襲に遭う。家が焼けはじめ、庭の防空壕も危ないからと、友だちと荒川の土手に逃げた。土手から見ていると家はどんどん燃えて、やがて跡形もなくなった。
 しばらく、今日はどこで寝ようか、そんなことをぼんやりと考えていると、誰かが「肉は?」と言った。わっ、と土手を駆け下り、確かこの辺だと友達と必死になって庭を掘った。埋めていた肉は、表面だけほどよく焼けていて、いまでいうローストビーフってやつだった。その場で友だちと夢中になって食べた。あれはうまかったなぁ……というのが、父が語った戦争中の話。

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自分史ブーム

 「自分史が秘かなブーム」と言われて、もう何年も経っている。ブームかどうかはわからないが、「自分史」という言葉は定着している。「自分史」という言葉を最初に使ったのは色川大吉氏である(『ある昭和史~自分史の試み』1975年)といわれているが、いずれにせよ最近の言葉。『広辞苑』第5版(1998年発行)では、「自分史」とは「平凡に暮らしてきた人が、自身のそれまでの生涯を書き綴ったもの」と定義しているようだが、事務所にある『広辞苑』第4版(1991年発行)には、「自分史」という項はない。
 ブームかどうかはわからないが、ブームにしたい人たちはいる。朝日新聞社などは積極的だ。自社の膨大なデータベースを利用した自分史づくりの情報提供がビジネスになり、編集・記者の雇用対策にもなると考えているのだろう。
 朝日新聞はともかく、商売になりそうだというと怪しい連中も入ってくる。自分史に限らず、自費出版では、おまかせでそこそこ立派な書籍をつくれば自動車1台分の費用はかかる。それを狙った出版詐欺や詐欺まがいも多い。
 以前、年配者に頼まれて自分史づくりの打ち合わせに出向くと、お茶を出してくれた女性が、その後、向こうの部屋でこちらを睨んでいる。ご本人の娘さんかお嫁さんで、怪しい奴が年寄りを煽って金を巻き上げようとしていると警戒していたらしい。
 自分史づくりのサポートは意義あることだとは考えているが、ビジネスにしていくのは難しい。

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自分史づくりサポート

 「自分史をつくりませんか」というと「それほど自慢できる人生ではありません」と答える人が多い。謙遜は美徳だと考えるほうだから、そういう答え方は好きだ。だがときどき「自分史を書く奴は自慢したがりだ」と決めつけている人がいる。それは違うと思う。
 自分史や家族史の目的は、自身や家の歴史を振り返りながら、いまとこれからを考えるためにある。いまの事情について「なぜそうなのか」を考えるには、歴史を振り返り、検証することが一つの有効な方法だ。自分や我が家の「なぜそうなのか」を考えたいと思う人が自分史に取り組む……そこに自慢はひとかけらもないし、ときにその作業では、知らなければよかった“不都合な真実”に出くわすこともある。なのになぜ、歯を食いしばり君は行く
のか。
 自分史の主人公は自分である。主人公だから、物語中では多少褒められる活躍もするだろう。そのぐらいは大目にみてもいいのではないだろうか。それでも、他人の自慢は断固として聞かない、という人もいるようだ。もっとも、自分史を「無理やり読まされる」のは辛い。他人の自慢や幸運をすべて否定するほど不幸ではないが、すべてに拍手するほど幸福でもない身としては、なるべく読みやすく、書き手本人に関心がなくても読み進められるつくり方を提案している。当社の「自分史サポート」は、そのような趣旨で行っているとご理解いただきたい。

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おにぎり物語・完結編

 日本のおにぎり市場を制圧したコンビニ太郎は、次いで世界進出を果たす。日本の創意工夫とおもてなしの心とノウハウで、世界中にコンビニ太郎の店ができた。
 コンビニ太郎は世界中の店で、おにぎり限らず、それぞれ現地で必要とされるものをつくり、売った。アメリカでは寿司を、中国ではラーメンを、韓国ではマスクを、ギリシャでは銀行を、インドでは軽自動車を。ちなみにコンビニ太郎は、インドでは修と改名した。開いててよかった。よかった。
     ※  ※  ※  ※  
 以上が100年後に語られるであろうコンビニ太郎物語(当然、フィクションなので、wikipediaでいちいち調べ直さないように)。そういえば、最近、キャバレー太郎さんは見かけないな。
 それはそうと、サラリーマン諸君。定年したら一度、自分史をまとめてはいかがか。太郎たちの冒険と成功譚の背景にある真実を、後世の者が少しでも知ることができる手がかりを残すために。

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おにぎり物語・頂上作戦

 さまざまな手立てで躍進したコンビニ太郎だったが、ライバルも真似をしてどんどん追撃してきた。そしてライバルは、ついに価格競争をしかけてきた。コンビニ太郎はそれを受けて立った。長く果てしない消耗戦。20世紀終盤から21世紀初頭の、日本の長きにわたるデフレ経済は、この戦いが原因だった。
 デフレは国を疲弊させる。コンビニ太郎は「価格ではない。多少高くとも良いものを提供すべきだ」と決断する。そして、最高級の筋子おにぎりをつくるために北海道に渡り、自ら石狩川に飛び込み、遡上する鮭をつかまえて腹を裂き筋子を入手した。さらに、手伝いに駆り出されたアイヌの人々に狩猟生活をやめて稲作を行うよう勧め、自ら品種改良した最高級おにぎり用品種・ゆめぴりかの苗を与えた。また、離婚率の高い北海道におにぎり工場
をつくった。シングルマザーたちに、赤ん坊をおぶったままでもできる仕事を提供したのだ。彼女たちは忌野清志郎の唄を歌いながらおにぎりを握る労働に励み、口々にコンビニ太郎を讃えた。「嗚呼、偉大なる首領総書記!」。こうしてでき上がった「金のおにぎりシリーズ」は市場を制圧し、ライバル店のコンビニたけしはおにぎり屋をやめて酒屋に転業する。開いててよかった。

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おにぎり物語・死闘編

 イヌやサルやキジが頑張ってたくさんのコンビニ太郎のお店ができたが、しだいに客足が鈍ってきた。お客様に飽きられたようだ。
 打開策に悩んでいたコンビニ太郎は、ある夜、銀座の街で、屋台で売られている磯部焼きやホステスの香水に人が吸い寄せられていくのを見た。「そうか、匂いか」と、コンビニ太郎は挽きたてのコーヒーを淹れて匂いで客を集めた。アメリカ人のシュルツは、これを真似てシアトルにエスプレッソの店を開いた。開いててよかった。

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おにぎり物語・代理戦争

 なんでも売る便利なコンビニ太郎の店は繁盛した。だが、喜ぶ人ばかりではなかった。
 コンビニ太郎の店が酒や文房具などなんでも売るので、以前から酒や文房具だけを売っていたイヌやサルやキジの店にお客が来なくなった。
 当然、彼らは苦情を言った。「コンビニ太郎さんコンビニ太郎さん。お腰につけた莫大な利益、一つ私にくださいな」。「あげましょう、あげましょう。これから私にフランチャイズ料を払って、経営方針についてくるならあげましょう」とコンビニ太郎は言った。そして多くのイヌやサルやキジが、お店をコンビニ太郎と同じ色に塗って繁盛した。開いててよかった。

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新・おにぎり物語

 コンビニ太郎が24時間営業をはじめると人々は感動した。24時間やれば人はそんなに感動するのかと、日本テレビが真似をした。コンビニたけしも24時間営業をはじめた。
 もはや営業時間での争いはできない。コンビニ太郎はおにぎり以外のモノも売りはじめた。パン、アイスクリーム……。するとコンビニたけしも真似していろいろな食べ物を売りはじめ、ついには鶏のから揚げをその場で揚げて売りはじめた。
 コンビニ太郎は考えた。食べ物だけでなく、なんでも扱う便利な店になろう、と。そして酒、調味料、野菜、薬、文房具、化粧品、下着まで売り、ついには銀行もはじめた。またも、コンビニ太郎は勝利した。開いててよかった。

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続・おにぎり物語

 朝7時から夜11時までおにぎりを売っているお店は繁盛し、日本全国に広がった。砂丘に阻まれたり、ねぶたやアメリカ海兵隊に邪魔された鳥取、青森、沖縄への進出は手間取ったが、それも果たす。
 コンビニ太郎の店が躍進すると、真似をする者も出てくる。コンビニたけしもその一人だ。ライバルは自分の店にもっと客を呼び込もうと、朝6時から夜12時まで開けることにした。ならばと、コンビニ太郎は朝5時に店を開け、深夜1時まで営業した。すると敵は4時に開け2時まで営業。ならば、コンビニ太郎は3時から3時まで店に立った。24時間営業のはじまりである。開いててよかった。

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おにぎり物語

 セブン&アイの鈴木敏文会長は母校の先輩であり尊敬する経営者だ。あの方の事績は必ず神話化されるだろうが、だが「セブンイレブンのおにぎりの具は全部鈴木さんが選んでいた」と何かに書いてあったら、それは違うだろうとツッコミを入れると思う。でも「本田宗一郎氏ばブレーキの調整をしたらしい」と聞くと、「だったら鈴木氏も」と考える人間がいる。そして100年も経つと、それが史実として残ることは十分考えられる。以下は100年後に子供たちが教わる物語である。
     ※  ※  ※  ※  
 むかしむかし信州にとても親孝行な息子がいた。その母が病の床で「筋子おにぎりが食べたい」と言う。すでに夜10時を過ぎて店はどこもやっていない。「朝になってお店が開いたら買ってくるから」と息子は言ったが、母は翌朝8時、息を引き取った。「苦労をかけた母親に筋子おにぎりを食べさせることができなかった。お店が朝7時から夜11時まで開いていたら…」と思った息子は、「二度と自分のような悲しい思いをする人をつくるまい」と一大決
心をして、中央大学を卒業後、近くて便利、「開いててよかった」おにぎりを売るお店をつくったのである。孝行息子は後に、コンビニ太郎と呼ばれるようになる。

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太閤の履歴書

 「私の履歴書」は日本経済新聞の人気コーナーである。出世を夢見たり起業した人間であれば、誰でも一度は「俺が載ったときは」と考えるものだ。ワタクシだってそう思ったことがないわけではないし、いまも秘かに思っている(あっ、いま笑ったな)。
 「あれって、会社の手柄はみんなトップの手柄になっている」という批判もある。しかし、世の中、みんなそんなもんじゃないか。
 根拠があって言っているわけではないが、僕は戦国大名家というのは一種の“企業”だったと思う。織田株式会社の事業部から独立した株式会社豊臣の社長は立派だった。だが、だからといって墨俣城の建設も、稲葉山城内の調略も、高松城の水攻めも、その全部を彼一人が考えて陣頭指揮したとは考えにくい。会議で誰かが提案し、命令された誰かが現場で工夫したのだろうと考える。ただ、その記録がないから、面倒だから秀吉社長一人
の手柄にした。徳川株式会社も、家康が陣頭指揮したのは、三河の町工場だったときだけだろう。トップが偉かったのは、そういうしくみをつくりつくらせ維持したことである。
 下っ端の記録はなぜ残らないのか。足軽の多くは字がかけなかったが、士分の者は書けた。それでも書き残さなかったのは、手柄はすべて上司に集めた方が得だということを、昔の人も知っていたからだろう。

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