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2017.01.08

年末のご挨拶

 昨日の飲み会では、〆にレタス炒飯をシェアして食べることにしたが、どうしても食べたいからと周囲の反対を押し切って酸辣湯麺も注文した。それらはしっかりお腹まわりの肉になっているから、決して無駄ではないと思いたい。このように、無駄の多い人生を長くやっているが、無駄とわかってやるときもあれば、必要だと思ってやったら無駄だったということもある。
 若い頃、敬愛する先輩に認めてもらいたくて、いろいろ無駄なプレゼンをしては失敗した。俺も牧場君になっていなかったか心配だ。損はさせなかったつもりだが、得をさせることはなかった。それでもその人は、よく面倒を見てくれた。いや、いまも面倒をかけている。
 功を焦るのかケチなのか、無駄なことは一切やらないという人がいる。無駄なことはやらないという決意は、無駄なことのように思えるが、どうなのだろうか。
 無駄かなあと毎回悩みつつやってきた「のらこみ」も年末のカレンダーも、案外、無駄じゃないこともあった。もっとも勝手に送りつけられている皆さんにとっては、無駄かもしれませんね。
 今年も無駄話におつき合いいただきありがとうございました。明年は当社も創立25周年となります。今後ともよろしくお願い申し上げます。

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零の生涯

 若い頃、初めて読んだ他人の自分史は『零(ゼロ)の生涯』という本だった。おでこに瘤がある大蔵大臣・水田三喜男の秘書だった人が晩年に書いたもの。
 水田を総理にし、自分も政治の表舞台に出るつもりでいたが、水田の急死で望みが断たれる。「思い返すと、自分の人生はゼロだった」というのが表題の由来。しかしそれは大いに謙遜だということは、水田の死後も含めたその人の人生を知ればわかる。もちろん、どんな人の人生も、零ではない。
 今年は年配の方の自分史3冊と、102歳で亡くなった方の評伝を仕上げた。

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無駄の集積

 編集の仕事ができると思ったのに、毎日封入作業をさせられている学生バイトに、「しっかりやれ。人生に無駄なことなど一つもないぞ」と声を掛けようとしてやめた。本当に、人生に無駄なことなどないのであろうか。
 思えば無駄の多い人生だった。それらが無駄だと知った点においては無駄ではなかったが、後から気づいても無駄だ。とにかく、どれもこれも、なんであんなことしていたんだろうと思うことばかりである。無駄も積もれば山となる。無駄の集積が我が56年の人生だったのだと思うととても切ない。

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20周年

 妻と待ち合わせて外で飯を食うことになった。何がいい、と聞くと「何でもいい」と言う。じゃあ中華だな、と言うと
「えーっ」と言う。さっき「何でもいい」って言ったろ……といった会話を続けて20年が経った。
 食事をしていると、彼女は新しい習い事がしたいので、どこか教えてくれるところを知らないかと言う。
 その分野は不案内だが、有名な学校なら一つ名前だけは知っている。すると、その内容や授業料、教わっている人たちの様子を調べてくれと言う。そこに行きたいのかと聞くと、行くかどうかはわからないという。このクソ忙しいのに、行くかどうかわからないところのことを細かく調べるなんで無駄だと言ったら、無駄じゃないと彼女は言う。なぜ無駄じゃないのかの理由は、無駄じゃないからだという。なんじゃそれ。そのような会話を続けて20年が経った。

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忘却とは

 年上の友人・後藤幸一監督が『映画作家 黒木和雄~非戦と自由への想い』というドキュメンタリーを制作した。新海映画と真逆かもしれないが、いい映画だから昼飯に鰻を食わせるという約束で、若いスタッフたちを連れて観に行った。入場料以上の映画だった。小さな会場だが、人がたくさんいて良かった。当社スタッフ以外は、年配者が多かった。黒木も没後10年。鰻を食った後、黒木の戦争三部作(『TOMORROW/明日』『美しい夏 キリシマ』『父と暮らせば』)を大人買いした。
 僕は卒論が高橋和巳だったから「映画は別物だから高橋ファンは観ない方がいい」と言われ、黒木の『日本の悪霊』は観ていない。佐藤慶主演。もう僕の頃でも高橋和巳って誰って聞かれたし、あの頃すでに、主義主張を直球で語るのは野暮だと言われた。
 戦後生まれの後藤監督も70歳になった。少女の頃の星明子が、なぜ一升瓶に米を入れて棒で突いていたのかを知っている最後の世代だ。伝えていかなければ、戦中戦後は忘れられてしまう。忘却とは忘れ去ることなり。忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ。(菊田一夫)

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「。」のない方

 比較研究をしようと、佐田啓二、岸恵子の『君の名は』のDVDを買った。「。」のない方である。携帯がない時代だからこそ成立したすれ違いドラマ。「今日は行けない」と数寄屋橋で待っている彼の携帯に電話しておけば、この物語はなかった。今の子たちは、観てもわかんないよ。
 新海作品では携帯電話は目覚まし時計の代わりにも使われている。僕は新しいスマホで目覚ましをセットして、会議中に鳴らしてしまってからやっていない。
 映画『君の名は』は1953年公開のメロドラマである。それでも時々、登場人物たちに「戦争」や「戦後」を語らせている。

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『君の名は。』

 今年のヒット作『君の名は。』を観た。同世代の友人は、大学生の息子に「お父さんたちが観てもわからないよ」と言われたという。僕はわかったつもりでいる。入場料分はある作品である。
 監督の新海誠氏は母校の卒業生である。国文学専攻なので直系の後輩。後輩が有名人だからと自慢するのは、隣の家の車庫にベンツがあるのを自慢するようなものだが、でも自慢である。先輩なのだから、という理由で、大学広報誌のインタビューに同席することになった。それで前日に慌てて観たのである。
 すでに何億円も稼いでいると聞いていたから、嫌な奴かもしれないと思って会いに行ったが、実にいい人だった。やっぱり俺の後輩だと、隣のベンツ自慢。

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古代水沢うどん

 古代のうどんは小麦粉を皮ごと挽いた全粒粉で作っているという。だから色は完全にそば。太さは山梨のほうとうよりも太い。これが釜揚げのような感じで出てきて、器にとって塩とオリーブオイルで食えという。
 やってみるとなかなかいける。これはパスタだ。材料は同じだから、当たり前と言えば当たり前だが。
 しかしそれにしても、隣が始祖を名乗るとすかさず古代を再現するとは、元祖、恐るべしだ。
 そしてめでたく2種完食。腹はパンパンだが、妙な達成感で鼻歌を歌いながら店を出る。東京ロマンチカ。偲べば懐かし古代のうどん。

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断固水沢うどん

 冷たいもりうどん、醤油とゴマの二色つゆは1,000円税別である。はなまるうどんや丸亀製麺に比べれば極めて高額である。しかし、いい仕事をするためには金に糸目はつけられない。といっても、別にグルメや観光の取材ではないけど。
 お品書きを見ると、「古伝 喜利麦 ¥1,000(税別)」というのがある。古代のうどんだという。これも食べてみたい。2つは食べ過ぎだと思うが、次いつ来られるかわからない。水沢うどんの良さだけでなく、この珍しいものについてもコメントできるように断固として2つ注文しなければならない。別にグルメや観光スポットの取材ではないけど。
 いやしかし、炭水化物の大量摂取は控えようと、先週も3回ほど決めたではないか。
 逡巡すること20秒、すいませーんと店員を呼び2つとも注文する。こういう時だよな、俺は体を張って仕事をしていると思うのは。

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元祖水沢うどん

 観音様にお参りし、さてどこのうどん屋にしようかと考える。店構えが立派なのは「元祖水沢うどん」を名乗る田丸屋である。田丸屋は「水沢うどんの元祖にして大本家である」と言っている。元祖も本家も取られてしまった隣の清水屋は、「始祖水沢うどん」と看板に書いている。
 清水屋はうどんとは言わず、うむどんと言う。その方が始祖らしいからだろうか。清水屋は水沢うどんの始祖にして宗家である。逡巡すること30秒、始祖という表現がしっくりこなかったのと大袈裟な店構えの中も見たいという理由で、元祖の方に入る。

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本場水沢うどん

 群馬県渋川市に取材に行くことになった。仕事は午後からだが、少し早く出て、ゆっくり昼飯を食おうと思った。お目当ては水沢うどんである。
 讃岐、稲庭と共に日本三大うどんと言われているが、久しく食べていない。というのも、「水沢うどん」は商標登録されていて、水澤観音近くの水沢うどん街道に並ぶ13件しか、水沢うどんを名乗ってはいけないことになっているからだ。
 同じようにコシと弾力があるツルツルした白い麺を、冷たくして醤油だれやゴマだれで出しても、勝手に「水沢うどん」とメニューに書いてはいけないのである。水沢アキがうどん屋を始めても、「水沢うどん」と看板に書いてはいけない。水沢うどんを食べるには、渋川からバスに乗って水沢に行くしかないのである。

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秋の宵

 野球観戦はビールだが、相撲は日本酒だろう。それにしても、枡席はなぜあんなに狭いのだろうか。1.5メートル四方に4人。あんなんだったら家でゆっくり観た方がいいという話になる。
 今年の秋場所、地面が陥没したばかりの福岡市に、あんなにたくさんお相撲さんが集まって大丈夫かと思ったが、鶴竜の優勝で幕を閉じた。
 秋場所も千秋楽の日曜日になると、鍋と熱燗でテレビ観戦というのがいいと思ったが間にあわなかった。もっとも、十両から飲み始めると、『サザエさん』のエンディングの頃には、大酔っ払いだ。昔、友達の家のお父さんがそうだった。
 秋場所の結果により名門・高砂部屋は、来年初場所に関取が一人もいなくなることが確定した。後援会の年寄たちは大騒ぎだろう。わが母校も、予選会の結果、箱根駅伝に出場できない。正月の酒量は減るだろう。
 白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒と女は二ごうまでなり。

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神宮の星

 ひねた中年になってからアンチ巨人になったが、特定の贔屓球団はない。ここ数年、年に1、2度、神宮球場でプロ野球観戦をする。ヤクルトに勤める先輩の招待なので、1塁側の内野席で、その日はヤクルトファンにならねばならない。東京音頭の音楽が流れるとビニール傘で踊るのである。
 野球観戦の楽しみはビールである。ビールを頼む時は、銘柄ごとの太腿露わなユニフォームを着てタンクを背負った女の子を呼ぶのである。銘柄で選ぶ客もいれば女の子で選ぶオヤジもいる。
 今回の観戦で初めて気づいたのだが、タンクを背負うベルトにフックがついていて、そこにおつまみが下げてある。「ビールっ」と呼ぶと、彼女は手を挙げて元気にスタンドを駆け上がってくる。その時、おつまみの袋がぺたぺたと胸に当たっているのである。あのちくわが食べたいと俺は猛烈に思ったが我慢した。今日は、健康飲料メーカーの招待なのだから。タフマンも売ってたな。

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消息

 星飛雄馬は元気だろうか。facebookで検索すれば出てくるだろうか。
 髪が伸びたからそろそろ床屋に行ったらと妻が言う。花形も明子さんにそう言われているのだろうか。鏡に写る寝起きの自分は、一段と下ぶくれで左門のようだ。銀縁丸眼鏡はやめておこう。腹は中日に行く前の伴宙太。だけど、身長だけが星飛雄馬である。父ちゃん、ううう。

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バブル回顧

 星飛雄馬は元気だろうか。1967年に高校を1年で中退して巨人に入団、青雲高校の同級生たちが全共闘運動に敗れた後の1970年のシーズン後半で失踪する。20歳そこそこである。数年後『新・巨人の星』で復活し、1979年、28歳まで巨人にいたことになっているが、その後はわからない。何事もあんなふうに大袈裟に考える性格では、世の中、生き辛かろうと思う。
 飛雄馬の友人に牧場春彦という人物がいる。これが困った奴だった。本人は飛雄馬の大ファンなのだが、伴大造後援会長の横暴に腹を立て闇討ちを試みて失敗し、しかもそれが飛雄馬への濡れ衣となり高校退学の原因となる。巨人に入った飛雄馬を追っかけ二軍の試合を克明に記録。そのスクラップブックを左門豊作に見せたことが、星君の致命的な欠陥ば見つかることになるとですたい。おそらくバブル期には、画家志望から画商に転じ月光荘にも出入りしていた牧場は、引退後の飛雄馬に絵画や株の投資を勧め、その後大損させたに違いない。いたよなぁ、そういう奴。

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コンダラの唄

 後輩のオーノ君は、校庭の隅にあるグランド整備用のコンクリートのローラーは「コンダラ」という名称であると信じていた。それは毎週日曜日、「重いコンダラ、試練の道を」と飛雄馬がローラーを引いて歩いている歌を聴いていたからだという。
 星飛雄馬は推定1951年生まれである。存命であれば、今年から年金を受け取っているはずだ。プロ野球選手は自営業だから国民年金だろうが、姉・明子が嫁いで義兄となる花形満の花形モータースの企業年金にも入れてもらっていたかもしれない。花形モータースと伴自動車工業はリーマンショック後に合併し、いまは中国資本の傘下にある。

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男一徹

 純真な子供の頃は巨人ファンだったが、それでも判官びいきで弱いチームが気になった。赤ヘルになる前の広島は弱かった。甲子園大会の決勝戦で紅洋高校に敗れた青雲高校の星飛雄馬に最初に接触した球団は広島カープだった。父・一徹の反対がなければ、広島の初優勝はもう5年早かっただろう。
 堀井憲一郎によると、『巨人の星』の星一徹は一度もちゃぶ台をひっくり返していないそうである。嘘をついた飛雄馬を叩いた時、ちゃぶ台が傾いて茶碗がひっくり返った。このシーンが、毎週、主題歌とともに映されるので、いつの間にか人々は一徹=ちゃぶ台返しと記憶するようになったようである。怒ってちゃぶ台をひっくり返すのは八つ当たりである。一徹はそのような男ではないとホリイは書いている。

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カープ序史

 秋、出張先の札幌の居酒屋が騒がしかった。日本シリーズで日本ハムが勝ったのだという。これでまたしばらくハムカツが禁じられる広島市民を気の毒に思った。僕は紙ってるぐらいの薄いハムカツが好きだ。
 広島が前回、セ・リーグ優勝したのは1991年だった。10月末に広島が日本シリーズで西武に負けて、翌月僕は辞表を出した。広島はあれから再びリーグ優勝するのに25年かかったわけだから、わが社も25年目の来年には、なにか良いことがあるかもしれない。
 広島が赤いヘルメットをかぶるのは1975年からである。そしてその年にリーグ優勝する。球団創設25年目にして初優勝である。あの頃はプロ野球に関心があったから、山本浩二、衣笠祥雄、外木場義郎らを覚えている。安仁屋宗八はその年は阪神にトレードに出されていた。
 赤いヘルメットにCマーク。後に似たマークの大学に入り、赤いヘルメットの諸君と友達になるとは思わなかった。黒いのもいたな。

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郷に入れば

 郷ひろみはフォーリーブスのバックダンサーの時にすでに人気があって、ファンが「レッツゴーひろみ」と声援するので、1972年のデビューの時、それが芸名になったのだそうだ。レツゴーひろみにならなくて良かった。僕はゴーゴーを踊る世代よりも後だが、子供の頃、アニメの『マッハGOGOGO』を夢中になって観た。いずれにせよ中年以上の諸君が「ゴーゴー」と叫ぶのは危険だ。若作りして殺虫剤を振り回しながら踊っているイメージがある。
 夜、布団に入ってくだらない冗談を思いつき、明日、みんなを笑わせようと楽しみにして眠るが、翌日、それらがことごとくウケない。30代以下はもう使う言葉が違うのである。そう同世代に言ったら「そんなことはない。あなたのは昔からつまらなかった」と言われた。あの時は、泣けた、泣けた、こらえきれずに泣けたっけ。
 30歳をちょっと過ぎたスタッフに、春日八郎って誰ですかと聞かれた。彼女はきっと春日三球も知らないだろうから、地下鉄車両をどこから入れたかについて悩むこともないのだろう。

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劣後債

 先輩が「二次会にレッツゴー」と言ったので、若い人の前で「レッツゴー」は言わない方がいいと申し上げた。僕の認識では「レッツラゴー」はもちろん完全に死語で、「レッツゴー」も引退後、長期療養中の感があるからだ。すると「では、若い人はレッツゴーの時に何というのだ」と聞かれた。若い諸君に聞くと、「レッツゴーの時」って、どういう時ですかと聞き返された。
 昔『レッツゴーヤング』という番組があって、最初の司会は鈴木ヒロミツで最後の頃は太川陽介だった。ヒロミツさんは10年前に亡くなって、太川クンは今は蛭子さんとバスに乗っている。この番組が始まったのは1974年で、赤塚不二夫の『レッツラゴン』は1971年の連載開始。漫才の「レツゴー三匹」はその2年前に結成されたが、この人たちの名前は小さなツを入れないのが正しい。だから「レッツゴー」は引退はしていないが、めったに見ないと考えるべきだろう。

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